バーバーの椅子に座ると、担当のマツバラさんはきびきびとケープをかけ、慎重に首元の調整をした。彼はいつものように口角をわずかに上げ、楽しそうに「今日もバチっと、かっこよくキメていきますんで、よろしくお願いします!」と言った。マツバラさんは清々しく信頼できる男だ。二年ほど前、僕がこの店に通い始めた頃からの付き合いで、それからずいぶんと高い金を払っているが、この人以外に切ってもらうことはもう考えられない。彼は二郎系のラーメンとサウナと時計が好きで、その三つについて話し始めると、とめどなく熱がこもる。刈り上げの角度を整えながら最近行った二郎の乳化スープについて語り、フェードの具合を調整しながら、新しくできたサウナの水風呂について説明する。そして時折ピンサロの話になる。身綺麗な中年男性を相手にする職業として、すべてが適切なバランスの上に成り立っている。
先月、彼は不意にこう言った。
「実は僕、離婚したんですよ」
「ええ? 先月沖縄行ってましたよね」僕は驚いた。
「まあ、いろいろあって。沖縄も別行動でしたし」
彼はあっさりした調子で言った。僕は彼の顔を鏡越しに眺めたが、別に悲しんでいるようには見えなかった。ジョニーウォーカーの瓶に入れられたシャンプー、梳き鋏を入れる指の動き、2台並べられたハーレーのフィギュア、店内に流れるかすかなジャズ。
「しかも去年でしたっけ、結婚式挙げてましたよね?」
「そうですね。ま、そういうこともあるんです」
それで、今日もまたその話になった。彼は僕の側頭部に6ミリ・3ミリのグラデーションで刈り上げを入れながら、こう言った。
「そういえば、結婚指輪の代わりに、ロレックスの時計をプレゼントしてたんですよね」
「ロレックス?」
「はい。103万のやつ。元嫁に」
「えーっ、大学生の年収まるごとじゃないすか」
「でも、離婚したら、彼女、売ろうとしちゃったんすよ」
よくある話ではある。
「で、問題が起きちゃって」
「問題?」
「ロレックスって、転売にめちゃくちゃ厳しいんすよ。買った人間がすぐに売ると、その人、もう正規店で買えなくなるんです」
「なるほど」
「つまり、元嫁が売っちゃうと、僕は転売ヤー扱いになって、もう二度とロレックスの店に入れなくなるんですよ」
「えーっ、じゃあどうするんですか、返してもらうんですか」
彼は苦笑した。
「いや、それも考えたんですけど、ちょっとそれはあまりにもダサすぎるじゃないですか。だから、103万払って、買い戻すことにしました」
「……つまり、206万で買ったことになる?」
「そうなりますね」
バリカンの音が一瞬止まった。
「もうしょうがないから、積み立てNISA解約しましたよ」
そう言って彼は笑ったので僕もつられて笑った。彼の手元では、僕の髪が淡々と刈り揃えられていった。