2025.05.28

日記をやめようかと思っていた。「日記はオワコンじゃないすか」というようなことを一年前から方々で言っていたが、いよいよもうオワコンだ、俺が書くべきものではない、というようなことで頭がいっぱいになってしまい、しかし大して書いていないくせになんと傲慢なのであろうか、言葉を慎んだ方が良いとは思うが、回り続ける思考、もとい苛立ちを慎むことはできないのでこうして日記に書いている。いろいろな感情がある。もう飽きたとも思うし、俺が書きたいのはこれじゃない、とも思う。いい加減、日付以外をタイトルにした散文を書きたい。だから自分のサイトをリニューアルして「随筆」と「書評」というカテゴリを作った。本当はこっちでいきたい。俺は日記以外も書けるんだぞ、ということを示してゆきたい。

本来、日記はまとまった文章を書くための習作としてはじめたものだった。いつ頃始めたかはもう忘れたので自分のnoteのアカウントを調べるが、公開している日記のいちばん初めは2022年12月14日で、たぶんその前も書いていたけれどそれはお蔵入りにしている。折角なので全文を引いてみる。

2022.12.14

相変わらず、寝起きがあまりよくない。それでも間に合う時間に起きたはずだったのだが、ていねいに身じたくをしたら家を出るのが遅くなってしまった。いつものことだ。週に1回は、大学に行くときに新幹線に乗っても良いというルールを自分に課しているので、さっそく週初めからそのカードを切る。今日の授業は、出席を取らないので正直行く必要もない。授業の内容にさらさら興味もない。しかし、行かないと自分の中で消化不良が起こる気がして、仕方なく新横浜から東京行きの「ひかり」に乗る。ラーメン一杯ぶんの値段で消化不良を避けられるなら、まあいいか、ということにしている。窓側の自由席でめいっぱいリクライニングを倒して、ぼうっとしている間にすぐ品川に着いてしまう。これが博多行きの下り電車だったなら、どんなに幸せだろうか。ここ半年、旅らしい旅をしていない。

これを言うと、どう頑張っても説得力のない言い訳のようでみっともないのだけれど、ここ1年間、毎日、まとまった散文を書こうと試みていた。一日の終わりには、今日こそは書かないといけないなと思う瞬間が必ずあったし、それらしきものが書けた日もあった。とくに夏が終わったころからは、いろいろなものに対する嫉妬や羨望の残渣みたいなものが奥底からうじゃうじゃと沸いてきて、身体中を駆けずり回って困っている。そういうときには、書くことでしか対処できないと確信している。話せば長くなるけど、いろいろな方向からこの気持ち悪さを眺めて、時には押しつぶされた結果、どの方向からも書くしかないという結果に落ち着いているのだ。しかし、めらめらした気持ちに突き動かされて、言葉を強く短くプレスしたところで、それはやはり尖っていて、とても人さまに見せられるものではない。なにより、自分で読み返して不快になる。さらっとしていて、かつ芯が通った文を書きたい。そして、そういうスタンスの人間でありたい。

一人称ひとつで考え方も変わる。ふだん自分の頭の中でものを考えるときの主語は「俺」だ。どうして俺が。どうしてお前が。おかしいだろ。俺とあいつの何が違う。憎悪の主体は俺で、対象はお前だしあいつだ。考える主体を、文字というフィルターを通すときに「ぼく」にすることで、柔らかく穏やかにしたい。ぼくは、日常において他人と話すときの一人称が「ぼく」のひとを、内心羨ましく思っている。なんだか丁寧で、スノッブな感じがする。「ぼく」は、夜道を歩きながらストロング・ゼロを飲み干したりしないだろう。でも「俺」は、「ぼく」みたいな女々しい(というと角が立つが)思考の主体を心の底では軽蔑していて、そんな「俺」が世の中を見回すだけで、いろいろなことに苛ついてしまってきりがない。せめて文字の上では、「俺」には引っ込んでもらって「ぼく」を大事にしようと思う。

ぼくは、日記について考える。

 日記は毎日が妥協と諦念の産物だ。しかしすぐに気がつく。クオリティと投入した時間との相関関係は実はそこまで大きくないことに。あるいは、自分が思っているほど自分は面白くもなければ文章力もないという現実に。
 なにかを書いたり制作したりすること、特に完成させるという行為は、自分の大したことなさと向き合い、大したことなさを受け入れ、大したことないままに完成ということに決める、そういったまったく格好よくも気持ちよくもない行為であるということを思い知ること。

柿内正午『会社員の哲学』


この部分を、噛みしめるように繰り返し読んでみる。今までなにも書かなかったのは、いや、書けなかったのは、自分が大したことないということにどうしても向き合いたくなかったからだ。書かずとも、自分が大したことないということに薄々気づいている。でも、それでも、最後の砦として、ものを読んだりものを考えたりして、それについて書くことで一発逆転ができるんじゃないかという思い込みがある。大したことないなんて謙遜はできても、そんなものは建前でしかない。俺はそう思うし、ぼくも実はそう思っている。

ウケる。当時のことはほとんど覚えていないが、マジで何も変わっていないのではないか。3年経った今も同じようなことをうじうじと考えている。未だに大学は卒業していないし、新幹線で登校することもしばしばある。オワコンなのは紛れもなくこの自分自身なのではないか。いい加減酔ってきたので面倒なことを考えたくはない。そう、日記以外の散文は面倒なのである。いや日記も面倒だが、僕はどんな形であれ文章を他人に読ませる以上、読者のことを意識せざるを得ないし、いくら酒を飲んでいたとしても酔っ払いの戯言を垂れ流すわけにはいかないと思っている。しかし残念なことに気持ちよく酔わないと文章が書けない。その葛藤の中で、結局「日記を月1くらいで書く」というルーティンが形成されてしまった。酒は毎日飲んでいる。

しょうもない。書きたいことは沢山あるが整えるのが面倒くさい。素面だとどうしても整えたくなってしまう。酔ったまま書いて「こいつはこういうことを書くんだ」とも思われたくない。そうすると何も書けなくなる。本当は書きたいことがたくさんある。この日記や僕の書く文章を楽しみにしている人が一定数いるのも知っている。3年前に比べたら随分多くの読者ができた。多くの人に読まれる文章を書きたい。ポッドキャストもやりたい。文フリでもっと本を売りたい。『随風』に寄稿したい。『文學界』から呼ばれたい。いや『文學界』には私怨があるのでそれを圧倒するような文芸誌を作りたい。オアゾの丸善に自分の名前が載った本を置きたい。自分だけではない、友人知人が書いたものがもっと多くの人に読まれてほしい。プロアマ問わず、紹介したい本だって沢山ある。そのためには、そのためには日記だけではない形で文章を出してゆくべきではないか。ここ最近、そんなことを思い続けている。本気だ。