そうかい、じゃあ、と言ってから、サトウさんは黙った。ずいぶんと長い沈黙だった。初夏の風がわたしたちの間を吹き抜け、去っていく。ぶろろろろろ、と、遠くで車のエンジン音がして、ニセモノ、わたしはふっと、バス停の標識の向こうを見やった。青いナツミカンの葉と、未成熟なアジサイ以外は、なにもない。
「海」
サトウさんは言った。「海が見たいねぇ」
海。
シー。ニャンジャ。
坂崎かおる『海岸通り』―― 「文學界」2024年2月号、p.103
海。
「いいね」
わたしは言った。「この場所にあって、この場所にないもの」
海岸通り、というニセモノのバス停の文字を、わたしは立ち上がって雑巾で拭く。それは嘘みたいにきれいな光沢で太陽を反射している。
今回の芥川賞候補作を読んでいる。候補5作品が載っている文芸誌5冊のうち、3冊が手元の本棚にあることがおそろしい。小説ばかり読んでいたら小難しいことも考えたくなってきて、やれグレーバーの『ブルシット・ジョブ』やらマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』だのを図書館で漁って、おのれの情けなさをこの分厚い本たちがどうにか肯定してくれないだろうかと目を滑らせていた。昼の授業に出てから初台の店へ行き、そこらへんを一挙に読んでしまおうと思い、スペアミントのハーブティーを頼んで、そういえば昨日なんとなく買った『悪いことはなぜ楽しいのか』が途中のままリュックに入っていたのでそれも読み、これはなかなか良かった。2時間半ほどで出、近くの銭湯で軽くシャワーを浴びてから夜勤へ向かった。