医者は白髪に髭のお爺さんで、こちらの目を真っ直ぐ見ながら3、4つのことを訊いてくる。ときおり僕の言ったことに対して「なんだって? わからないな」というような表情を作るので、耳が遠いのだろうということを察してからは、簡単な言葉を使って、大きな声で答えるようにしている。それが台本を無感情で読み上げているみたいで、どうしてここで、こんなことを、はっきりと、述べているんでしょうか、離人症なのではないか、と思うんです、濱口竜介は、役者が台本の読み合せをするとき、いっさい、感情を入れさせないそうで、なんなら撮られている人の台詞も、多くの言葉が、棒読みで、それがかえって、妙な不気味さを感じさせる、と思いました。『悪は存在しない』の、うどん屋を営む女性がその最たるもので、説明会の途中「この土地において、水は誇りなんです、そういうものだと、知ってもらいたいんです」と述べるシーンなど特に恐ろしかった。欠落。午後もそれを引きずる。初台の店は今日も満席が続いていて、それでいて穏やかなので安心できる。途中、見送ったばかりのお客さんの机に薬の錠剤が残されていることに気づいたので、それを手に取って、一瞬の逡巡のあと店を出て階段を駆け下り、商店街を右、左、右、と見ると右の方向30メートルほど先を歩いている背中を見つけたので、小走りで駆け寄って歩調を合わせながら呼び止めて「あの、これ……」と手渡した途端、わけもなく涙が溢れてきて、それを悟られないように袖で拭って、店に戻って夜まで働いた。