2024.02.01

ワカオくんが高橋源一郎の『ニッポンの小説』を読んだらしく、影響されて「脳みそから直接言葉を」出すことを覚えたらしい。脳の時代が来た、脳というか脊髄、「脊髄の声が文学なんだけど、脳がそれを止めてる、だから脳をやっつけないといけない」のだそうだ。思えば文フリで知り合ったPINFUさんなんかもそういうやり方をしていると思う、最近の日記、じゃなかった小説は特にそういう感じにみえる。ワカオくんはそうやって脊髄で書いたものを彼女に見せて怒られていた。元カノを礼賛して今の彼女を悪く言うような内容だったから、そりゃそうだよあれは見せちゃいけないよ~と思ったけど次の日にはけろりと仲直りしていて不思議だ。そういえばワカオくんと知り合った頃、三田のベローチェの狭くて真っ赤なテーブルで「偏愛マップ」なるものを書いたことを思い出し、偏愛マップと言ってもそれぞれの好きなものをA4の紙に書き連ねてゆくだけなんだけど、それを今もう一度やってみようと思ったら全くできずにスカスカにになった。いや、というのも、もうすぐ大手出版社のエントリー・シートの締切が近づいていて、今までそういうエントリー的なものはアルバイト先にしか出したことがなくて、だから早めにインターンとかで経験しておきましょう自分に関する情報を整理しておきましょうと散々クソみたいに言われているのは重々承知しているのだけど、本当にしょうもないと思う、なんか、どうにも、書けそうにない。長所も短所も自分をアピールすることも、その、ないわけじゃないと思うし他人はよく僕のことを多趣味だとか拘りが強いだとか自分を持っているとか、言ってくるので、相対的に見ればある方(そんな、ある方だとかない方だとかって言うのもおかしいですね)とは漠然と思っていました。しかも曲がりなりにも文筆やってます~みたいな感じを出してるし寧ろそれしかないんじゃないか、とか思ってるし。根がネガティブなのかな~と言ったらそうだよ、と言われたしそうなんだろう、今更もう何もしたくないしどうでもいいです、結構苦しいんだよな、苦しいのは自分が何もしていないから苦しくてそれはじゃあ前に進めばいいのかと言えばそうでもないし、砂浜でスタックしてる感じ。まだ脳で書いてる。脳をやっつける、脊髄。脊髄で書くと、だから死にてーまじでもういいって、ほんとにやめよう、やめやめ、おしまい! おしまいです! 生まれてきてすいませんでした、みたいなことになっちゃうので脊髄は手に負えなくて困る。その血が全身を巡っている。

面白いことがひとつもない。なんかもうよくないですか? なにがですか? 人生? いろいろ。この前、何を思ったか恋人に「就職する気はあるんだけどまだ何にもしてなくって、出版社とか受けようとおもってて……」みたいな話をして、彼女は彼女で僕のやることを否定することはひとつもないので頑張ってねみたいな感じで、それでどういう話の流れか忘れたけど、「こうやって日記書いてインターネットに垂れ流してるのも、少しでも無駄なことを増やしたくてやってんだよね、なんだろな、コスパとか効率化とか面白くなくね」みたいなことも言ったら(結局これも誰かの受け売りだ)、「あなたはやっぱり面白いね」みたいな感じで、でも何にもならない。「ワカオくんとかタキくんみたいな人と出会えてよかったね」とも言われた。この話はおしまい。それで、やはりなんか気力がない。沖縄に行ったら部屋に何にもなくてそれが良くて、ヨーグルトとサラダチキンと千切りキャベツばっかり食べていたんだけど、それも良かった。『パーフェクト・デイズ』は役所広司がそういう質素な生活を送りながら決められたルーティンを保って日々の小さな変化と幸せを見つけていく、みたいな話で――こんな粗筋でいいのか、僕も昔カウンセリングで「結局なにがしたいんですか」みたいなことを訊かれて「毎日決まった時間に起きて、規則正しく生活をしたいです」みたいなことを言ったらそれはそれで不本意な診断を貰ったりしたんだけど、でも結局そうなんだろうな、それでいて破滅的な仕事というか多忙、みたいな状況下にあるのも好きだし、それでしか馬鹿力みたいなものを発揮できない。脊髄ってこんなこと言うの? 普段と大して変わらなくね? いろいろ面倒なのは脊髄のせいじゃね?

あ、そう思い出した、「無駄なこととして日記を――」のくだりは、「将来どうしたいの?」みたいな話から繋がっていったことで、恋人はやりたいことがないから就活を頑張ったみたいなことをずっと言っているし、結局僕もやりたいことがないんじゃないかとも思うんだけど、そうすると脊髄が「ちげーよあるだろ! やりたいことがないとか言ってる奴らのことを見下してるだろお前は!」と言ってくる。これは脊髄で合ってる? それとも脳? それでいて僕は人に尋ねられると「舘ひろしみたいな歳の取り方をしたい」だとか「無駄なことをおもしろがってやっていきたい」とか言うようにしていて、まあそれは嘘ではない。空港に行けばずっとパイロットになりたかったことを思い出す。そうなんだよな、そこで人生を間違えた感はある。高校3年の時は、色々な大学の航空部のサイトを見ては、大学生になったら体育会の航空部に入ってグライダー競技をやるものだとばかり思っていたし、万が一それが叶わなくても自動車部でジムカーナをやろうと思っていた。どちらにせよそういった界隈とのパイプはあるだろうからそれで良ければパイロット、視力の問題で(グライダーに乗るのにも厳しい屈折率なのは確かだった)駄目だったらエアライン、そうでなくてもまあどっかしらの大企業に入るっしょ余裕余裕とか調子に乗っていて、どっちの新歓にも行ったんだけど、すんでのところで入るのを辞めた。それでいつからか夢じゃなくなった。もう過去のことだと思うようになって、空港にヒコーキの写真を撮りに行くこともなくなったし、車のほうも高校時代の部活には区切りをつけたつもりでいる。『国境の南、太陽の西』の最後の方で、主人公の妻が「私にも昔は夢のようなものがあったし、幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。あなたと出会う前のことよ。私はそういうものを殺してしまったの。たぶん自分の意志で殺して、捨ててしまったのね。もういらなくなった肉体の器官みたいに。それが正しいことだったのかどうか、私にはわからない。でも私にはそのとき、そうするしかなかったんだと思う。」と言って、僕はパイロットとか航空業界だとかいうことを思うたびにこの台詞も一緒に思い出すんだけど、でもこの台詞みたいに格好良くもないよな、とも思う。そしてすぐ『ノルウェイの森』の永沢に、「自分に同情するな」と相変わらず一蹴される。

けれどやはりこの――由紀子の台詞はやはり自分にも当てはまるようにも思えて、たしかに大学の知人から「社不」と呼ばれるようになり、僕もそれを内面化して引きこもるようになってから夢みたいなものを殺したんだと思う。そう思うことでそれが物語になるからそう言ってるのかもしれない。「やりたいことですか? ないんじゃなくて……昔はあったんですけど、でもいつか、どこかでそういうものは消えちゃって……」、しょうもない。同じように格好のつく言い訳として見城徹の「夢は叶えた後に、ああこれが夢だったんだって言えよ」ってのがすぐに思いついて、これは言ったら気持ち良いだろうな、とは思う。夢、やりたいこと。この話になると「じゃあやりたくないことから考えてみれば?」と言う人も多いけれど、やりたくないことが沢山あってどうしようもないし、自分なんでもやれます、やらせてください! とも言える。今日は春の文フリの申し込みをした、考えなくちゃいけない。